ワタシのこと その1
ワタシのこと その2
ワタシのこと その3
↑ここからの続きです
さらにさらに続編〜
つづき
◎朗読をはじめたきっかけ
少しずつ体調に陰りのような変化があった2000年の暮れ、世田谷区でとてつもなく惨い殺人事件が起きました。
未だに犯人が見つかっていません。
事件の被害に遭われた方々と、ご縁があるわけではなかったのですが、世田谷の地には昔、自分自身や身内が住んでいたことがあり、私にとって、甘く淡い思い出があり、またとても身近に感じられる街でした。
端正な家並みで、静かに暮らしていた方たちが一体どうしてこんな目に?
どうして!?どうして!?
深い憤りが身体いっぱいに充満しました。
そして、ほとんど臥せるようになっていた2001年6月、大阪府の小学校ででたくさんの児童が無差別に殺傷されました。
9月、アメリカ同時多発テロが起きました。
これらの衝撃は私が言うまでもありません。
次いで10月、20代から30代にかけて追っかけ回して聴いていた、噺家の古今亭志ん朝さんが逝去しました。
いつもいい席を陣取って、志ん朝さんの華やかな高座を眩ゆく観ていました。
けれども私は、お爺さんになった志ん朝さんの、老熟した芸を観るのが楽しみだったのです。
10年先、15年先、志ん朝落語を聴きに、足繁く寄席やホールに通う白髪頭の自分のことだって、楽しみにしていたくらいです。
弱り切った私に、追い討ちをかけるように訪れた、真骨頂の話芸とのお別れの時。
今以って、尽きることない喪失感の只中にありますが、当時は尚のこと、心身の不調から立直るきっかけを切実に失い、神経は破壊寸前でした。
厭世観は募るものの、家族を、そして人生をまだ愛していたい。
死生観を先人の著した書に探し求めたくも、前述のとおり、脳髄がクリアでないので、難解なものは読み進められない。
八方塞がりの私の一日を、やりすごせさせてくれたもの。
それは、平易な話しことばで書かれた書物と、志ん生(志ん朝さんのお父っつぁん)のカセットテープの山でした。
実は、志ん生は私の「死生観問題」(笑)にたびたび登場します。
その話は →
こちら
志ん生は70歳過ぎたころ、脳出血で倒れ、しかしのちに半身不随を圧して高座へ復帰します。
病の後遺症で、滑舌は少々怪しいんですが、それが当人も意図しない
「味」
になりました。
↑布団のなかで、この録音を良く聴きました。
馬鹿馬鹿しい噺なんですが、志ん生が時折、言い淀みながらもみんなを笑わそうとしている、その、親が子をあやすような柔和な魂が感じられ、涙が出ました。
涙が心を洗い、文字通り「癒」されているのを実感しました。
私を看病して何とか布団から出そうとしてくれていたものは、人生を解く書物でも箴言でも宗教でもなく、
「語りかけてくれる」
「ありふれた どこにでもある すてきなことば」
だったのです。
わたしはつらい。
みんなつらい。
それを慰める答えもない。
けれども、すてきなことばをかけられたら、悲しいことを、ほんのひととき忘れさせてもらえる。
誰かに語りかけること。
ことばをかけて、にっこりさせること。
年をとっても、倒れても、呂律が回らなくったって、志ん生さんもやってる。
わたしにもできる。
にっこりさせる優しいことばを、わたしは持ってないけど、誰かが書き残したすてきなことばを、わたしが読んであげよう。
自分で読めないだれかに。
誰かに話しかけてほしいと思ってる、誰かさんに。
老いたとき、わたしは、そんな人間になっていたい。
そう、志ん朝のおとっつぁんの志ん生さんみたいに!
枕を濡らしながらも、はっきりと生きる目的が持てました。
ほどなく、朗読の勉強をするための場所を探し始めました。
次回につづく〜!!
と、思います〜
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