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いつだったかイマジカBSで放映されたニッキー・フィーラン監督の
「オ’グリムおばあちゃんの眠れる森の美女」(Granny O’Grimm’s Sleeping Beauty)
これには抱腹絶倒した。
おばあちゃんが(嫌がる)孫の枕元で「眠りの森の美女」を読聞かせる。
おばあちゃんは美麗なるものを嘲笑し、醜悪にオマージュを抱いているようだ。
朗読ではその憑依っぷりがスゴい。
果たしておさな子は今宵も不眠に陥るのだった………。
Granny O'Grimm's Sleeping Beauty
時折ネットで「こどもの頃に読んでトラウマになった童話」というスレッドが立っていて、
面白おかしく読んでは、そうだった、そうだった、と共感している。
しかしよくよく考えてみれば、こどもは一体、童話(多くは訓話的な意味合いでの)をどのように捉えているのだろう。
私が自分の目で読んだ「文字」で初めて泣かされたのは「マッチ売りの少女」だ。
四歳だったと思う。
そのときの気持ちは今でもはっきり憶えている。
この悲話を、半分くらいはフィクションだろうと感じつつも、単なる荒唐無稽な作りごととも思っていなかった。
私がそのとき触れた訳文がどなたの翻訳だったのかは、まるで思い出せないが、この物語はどの訳者のものであっても、せいぜい十分もあれば完読してしまう短いものだ。
しかし、私には少女のあの、雪降る日の裸足の一晩に至るまでの道程が、永遠にも感ぜられる程長かった。
静止した挿絵のごとく、少女の周辺だけ凍える手足と飢えで時空が止まっているかのようだ。
温かい部屋で絵本を自由に読む自分とはまるで異なる体感をしている少女。
痛ましく可哀想でならない。
誰か何とかしてあげて。
私が行って今すぐ助けてあげたい。
少女の逆境に追い討ちをかける理不尽な要素、例えば靴泥棒……
怒りで頭がおかしくなりそうだった。
涙は憐情と憤りが混じり合い、私はしばし畳の上でのけぞり悶絶びゃく地していたのを記憶している。
まだ殆どこれと言った精神的体験をしていない四歳のこどもが、世に憤懣したり、あの少女に悲哀を以て同情する心までを備えているのは何故なのだろう。
私は自分のことながら不思議に思う。
これもトラウマになるのでは?
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