2014年7月29日火曜日

鑑賞するということ

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http://wakei-shiori.blogspot.jp/2015/03/blog-post_6.html




小林秀雄・著 「美を求める心」より抜粋

…………私は、ロンドンのダンヒルの店で、なんの特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をしたライターを見つけて買ってきた。書斎の机の上に置いてあるから、今までに沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける序でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もいない。成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。黙って一分間も眺めた人はない。詰らぬ話をするなどと言わないでください。
………中略
 
見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
 例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だとわかる。何だ、スミレの花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。スミレの花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。……………引用おわり



私の知る中にも、音楽でも絵画でも落語でも何にしろ、ちらっと耳に、或いは目にするや否や、
「これ、何て曲?」
「誰の描いた絵?」
と、まず、概要の把握を急ぐ人がいます。それも一人や二人ではありません。
確かめさえすればそれで満足なようで、あとはもうろくすっぽ鑑賞もしない訳です。
一体何が、彼ら彼女らをそうさせているのでしょうか。

以前、丸谷才一が入学試験の国語テストに自分の文芸作品が引用されていたので、自身で問題に回答したところ不正解だった、とシニカルに書いていたのを興味深く読んだ記憶があります。
確か遠藤周作も同様のことを言っていて、自身の作品の一節で、作者の心情について問われた四択問題に答えたら間違いだった、当の作者が言ってるのにそれが違ってるとは何たることぞ、というようなことが書いてあったと思います。

双方とも本気で抗議していた訳でなく、ごく軽い笑い話ではありますが、それにしても笑ってばかりいられません。
あらゆる分野の作品を、他者の観点で補足すること自体そもそも大きなお世話である上、生徒たちは著者の意図しない思惑をインプットさせられていたのですから、両者にとってひどく不毛で嘆かわしいことだと思わざるを得ません。

ときに私たちが学校で受けた芸術教育とは、謂わば作品のスペック紹介のようなものでした。

「ナンノタレベエさんがいつナン時、どこそこでどういう環境でこんな心理でナン年かけてコレを完成させた。彼はこの作品において、こういうことを世に問いたいのだ」

私たちはいつでも、作品のバックグラウンドの情報を持つということが、それもその情報量が多ければ多いほど、「作品を深く知る」ことのように教えられて来た気がします。

果たして芸術家の秘めた本意や見え隠れするニュアンスまでも、わざわざ手垢のついた共通語に翻訳し、皆が揃って同じレベルの情報を得ることにどんな意義があるのでしょう。

だいたいのところを押さえておいて、隣近所で話題を分かち合う。日本人の良い所です。狭い日本では持ち合わせておいた方が安全な特質でしょう(笑)
けれども哀しいかな、勤勉なる日本人。かつての初等、中等教育はその後のメンタリティにまで引き継がれ、成人してからも尚、先に述べた、
「これ、何て曲?」
「誰の描いた絵?」
……な、教科書的疑問が先行してしまう鑑賞ベタな人々を日本中にあまねく存在させるという結果に至らしめました。

芸術作品を紹介するTV番組にしても、懇切丁寧な解釈や説明ばかりが多過ぎることが目につきます。
言っては悪いが、何しろずっと喋っている。
たった一分間、静寂のなかで鑑賞させてくれるなどという番組は、なかなかありません。
リズミカルな韻文さえ、そこによくあるその辺の言葉を目一杯付加して、ことごとく噛み砕き、お子様ランチ風に作り直してくれています。
これでは、詩人や歌人のせっかく成熟しかつ神秘な発露さえも台無しというものですが、しかしそういった番組が数多く存在するのも、大半の人が、その詩歌や俳句がどんな意味で何を言いたいのか、という全容がすっかり明確に理屈によって咀嚼されないと、自分がその作品を充分に味わったと感じられず、作品との安定感が得られないがためなのでしょう。

 ところで、近頃美術館へ行くと、昔と比べて親子連れがずいぶん増えたように見受けられます。
これも「お受験」対策なのかと勘ぐるのは穿ったことでしょうか。
ともあれ、
「この絵はね、誰それという画家が、これこれこういう気持ちを表現したものなのよ」
と、一点一点の作品前に陣取り、母親が年端のいかぬ子に熱心な解説をしています。
それは私には、子どもが自由に感じる心を奪っている光景に見えてしかたありません。
当の創作者にしても、画一的な見解を明示されるより、観る者がその時々の心で百万通りの解釈をすることの方が喜ばしいのではなかろうかと思います。


詩人や音楽家は、眼前の可憐なスミレをほったらかしたまま、スマートフォンと首っ引きに、この花は何科で何属の植物だろうかなんて検索したりはしないでしょう。
花弁のひとひらを飽かず見つめ、その微細な体裁に、淡く儚い色彩に、はたまた馨しさに驚異を以て感嘆するに違いありません。
やがてその素朴な感動は創造主への畏敬の念へと変わり、おののきと共に偶発的に芸術が産出されるのです。
事象を相手に瞬間の体験を積み重ねることが「知る」を真に奥深いものにしていくはずです。
芸術品を前にした際の鑑賞者である我々もまた然り。
ただ黙したまま観尽くし、聴き尽くすことです。心をすっかり空っぽにし、表現者が体験し得た心の奇跡を我が事のように感ずるまで。
創作者と同化する。それ即ち「学ぶ」ことであると私は考えます。




1942年 ドイツ。
国民、そしてフルトヴェングラーにとっても大いなる非常時であった。
一心に耳を傾けている人々。聴衆の心身に音が溶けているようなひとときに見えるが、これはナチスドイツの宣伝映像であることも忘れてはならない。

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