マンツーマン体験レッスンを希望される方はこちらもお読みください。
http://wakei-shiori.blogspot.jp/2015/03/blog-post_6.html
生で演じる古今亭志ん生(五代目)を(聴きたかったのに)聴くことが出来なかったジェネレーションのことを、総じて
http://wakei-shiori.blogspot.jp/2015/03/blog-post_6.html
生で演じる古今亭志ん生(五代目)を(聴きたかったのに)聴くことが出来なかったジェネレーションのことを、総じて
「志ん生に間に合わなかった世代」
と呼ぶそうだ。あべこべに、動く志ん生を観られた人は
「志ん生に間に合った」人々という訳だ。
志ん生の最後の高座は昭和四十三年ということだから、仮にその頃寄席に行ったところで当時三歳だ。やはり私も間に合わなかった世代である。
私の父は「間に合った」クチだが、それでもやはりそう何度も観られた訳じゃない、と言っていた。
なにしろ型破りの噺家人生だった。売れるのが遅かったというのもあるだろう。
父はあるとき(都電だったかバスだったかは失念したが)乗り物で、偶然にも金原亭馬生と居合わせたことがあったそうだ。
志ん生は昭和三十六年に脳出血で倒れ、その頃は高座を離れていたと云うから、恐らく昭和四十年前後の出来事だろうと思われる。
落語も志ん生も愛していた父は、思わず
「おとっつぁんは、どんな塩梅ですか」
と、尋ねてしまったという。
馬生は、はにかみながら
「ええ、まあ、達者にしてます」
と、にこやかに答えてくれたのだと言っていた。
その馬生からも、弟の志ん朝からも、私達はとうに置いて行かれてしまった。
全く畑違いではあるが、私が『間に合わなかった』ことでもう一人たいへんに残念なのは、マリア・カラスである。
しかし、私は一方的にではあるがカラスとのとっておきの思い出があるのだ。
1974年(昭和49年)に彼女はツアー来日し、東京文化会館大ホールでリサイタルを行った。
委細は覚えていないが、父はチケットが欲しかったのにともかく入手できなかった。
だが諦め切れなかったのだろう。
会えるはずもないカラスをほんの少しでも近くに感じるためなのか、父はリサイタル当日、私を伴い東京文化会館にまで出向いたのだった。
父はホール扉から程近い階段の踊り場で、手すりにもたれるようにしながら、耳を澄ませていた。
そして、
「ここまで聴こえるだろ。全盛期は過ぎたとは言え、声量はさすがだなあ」
と、嬉しそうに私に言ったのを覚えている。
なるほどカラスの唄声は、ホールの防音壁をも貫き、私の耳にまで届いた。
私は家で彼女のレコードを聴いたことがあったし、LPジャケットの顔を思い浮かべることも出来た。ホールから漏れるほどの大きな声は凄いには違いないと思ったが、何しろ子どもであったので、彼女が世界の人々をどれほど深く魅了していたかについては、少しも思いを馳せようとしなかった。
其れ故、その場で父と小さな感動を共有することは出来なかった訳でもある。
しかしのちに、私もこのdivaにすっかり捕えられた。だがそれは彼女の没後十年も経てのことだった。
カラスと私を繋ぐこの儚く細い接点は、今も甘美な秘め事の記憶のように私の胸を締めつける。
死んでしまってからその人物を愛するとは、何と狂おしいことだろう。
その日の映像は見つからないが、YouTubeでは同来日時に催されたNHKホールでのリサイタル映像を観ることができる。
東京文化会館やNHKホールのHPでは、過ぎ去りし日のコンサート情報が検索可能である。
↓ 東京文化会館 アーカイブ (1974年10月27日(日)・大ホールの記事)
↓ こちらはNHKホールのあゆみ
0 件のコメント:
コメントを投稿