音楽が産業であることに強い抵抗を消せないことから、私はかつて、生活から全ての楽曲を抹殺するほど、愛の裏返しのような激しい葛藤の時期を送ったことがある。
のちに激しさはあきらめとともに緩和したが、その時には音楽は私の中ですっかり色褪せ、どこか侮蔑の対象にさえなっていた。
ちょうどその頃私はコルカタに赴き、マザーハウスで重度の障害を持つ孤児の介護を経験した。
インドでは、障害のある子どもを路上に棄てる親があとを絶たないという、シビアな現実がある。
私がその日担当したのは、背格好から察するに、日本の小学六年生くらいの女の子の世話だった。
疾患名は不明だが先天的に脳の障碍があるのだろうか、四肢は複雑によじれて機能が衰え、座ることはおろかひとりでは寝返ることも物を握ることも出来ない。
眼は開いているものの、宙を注視したまま何も見てはおらず、視線が合うことはない。
私は少女の服を着替えさせたり、硬直した手足をマッサージしたりしながら、ときどき話し掛けてみたが、彼女が反応を示すことは無かった。
この子に課せられた命を目の当りにして、その場でセンチメンタルになることは、介護人の立場として賢明でない。
摂理の不思議を率直に受け止めなければならない、と心を戒めたものの、愚かなる私にそれは容易なことではない。
このように不自由な肢体に生まれた上、母の愛情を一度も受けることなく生きて来た少女の尊厳を、最大限まもる為にわたしは何をするべきだろう。
不運を全て無かったことにできるくらいの歓びを授けることは出来ないのか?
初めて出くわす心の体験に、泣き出したいくらい心細く動揺した。
しかし当の彼女の方では少しも動じる様子はない。
自力で何も出来ない少女と、五体満足であって無力感に打ちのめされている私。
この場で本当の弱者は私の方だった。
数十分もそうしていただろうか、やがて私は心を落ち着けようとでもしたのか、無意識に鼻唄を口ずさんだ。
口を出たのは、マザーハウスの朝礼で毎朝唄う覚えたての讃美歌だったが、それから数秒後、目を疑うような出来事があった。
先ほどから、触れても言葉をかけても無反応だった少女の表情が、いつの間にか満面の笑みに変わっているではないか。
私の鼻唄を聴いて微笑んでいる。
この子に一体何が起きているのか分からなかったが、私は彼女との接点を失いたくなくて、ハウスで教えてもらった英語のわらべ歌を次々に唄った。
にこやかに耳を済ます少女の頬は紅潮し、渇いた唇はしっとりと色味を帯び次第に生気を顕した。
健常者同志で関わり合っていたのでは決して知ることの出来ない、希少な場面に居ながら、そのとき私は少女に内なる神を感じていた。
胸の奥で、音楽という言葉にふたたび生命が宿り、今までとは違うどこかに向かって歩き始めた瞬間でもある。
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