今から三十年も前だ。
そのとき私は、はたちか二十一だった。
河田町の東京女子医大病院に十日ばかり入院した。
その二週間程前から腹部のどこともなく広い範囲に激痛があり、這うようにして病院を訪ねた。
外来診察を受けると血液検査をし、一週間後に結果が出ますと言われ、痛み止めの処方で帰された。
ところが次の晩、四十度以上の熱を出して、二日に渡って激しい嘔吐と下痢を数え切れない回数繰り返した。
結果が出る一週間を待たずに再度診察を受けると、医師は今すぐに検査結果を出して来るから待ってて欲しいと言い、そして結果を見ると途端に「すぐ入院してください」と告げた。
「全く異常の原因が分からないのですが、身体のどこかで激しい炎症が起きていることは間違いありません」と言う。
「炎症値が100以上あります。健康な状態では0.1未満です。こんな数値は交通事故で内臓破裂をしているとか、とにかく危篤状態の人に見られるくらいの高い値なんです」
私はあまりの激痛と高熱とで数日間ろくに寝ておらず、待合室でも時々気を失いかけていた。
それでも自分は瀕死の危篤ではないとは感じるのだった。
処置室で痛み止めと解熱剤の点滴を打ってもらい少し気分が良くなると、ナースがやって来て、
「このまま入院していもらいますが、内科の病室がひとつも空いていません。空くまでは小児科病棟のベッドに寝てもらいますが了承してください」
と言う。
最初に通されたのは六人くらいの子供がいる部屋だった。
私の傍らでは小児ぜんそくの発作で運ばれた子が、激しい咳をしていた。
両親が片時も離れず付き添っている。
子供は背中を海老反らせたり丸めたりして内蔵が飛び出てしまいそうなほどむせ返る咳をひっきりなしにしていた。
その痛々しい音と喘鳴は、私をとことん滅入らせた。
とうとうまんじりともせず一夜を明かすと、ナースが今度は別の部屋へ移れと言う。
そこは二人部屋のようだったが、極端に狭い。
恐らく付き添い用の個室なのだろう。
隣の子とのベッドの距離は、丸椅子に人が一人座れるくらいしかない。
この子は脳性麻痺だった。
愛くるしい顔の子だ。
しかし強い斜視があり、視線は全く合わない。
お母さんに尋ねると五歳ということだったが、言葉はひとつも発しなかった。
ベッドのサークルにつかまり立ちして、つたい歩きしたりへたり込んだり時々機嫌を悪くしたりしていた。
ただ黙って子供に視線を向けるその母親の心を、若く無知な私に読み取ることなど出来なかった。
彼女の方も、あまり自分たちには触れて欲しくないような様子だった。
私は失礼な言葉だけは発しないようにと、ただ遠慮してかしこまっていた記憶がある。
結局その部屋には半日程居ただけで、午後からはようやく成人の内科病棟に移された。
私がやっとのことで落ち着けた部屋にはベッドは二つあった。
今度はやたらとだだっ広い。
相部屋の女の人は、肌の色が透けるように白くとても痩せた人だった。
物腰がそこらでは見たことがないくらい丁寧で、優しさがすべてから滲み出ていた。
三十五歳だと言うが、肌の美しさを見ると二十代にしか見えなかった。
問わず語りに彼女は話してくれた。
「私は生まれつき脳の血管がどんどん細くなる病気で、これは難病というより奇病なの。まだ手術の成功例があまりないのね。適切な手術をしてくれる病院を探しながら転院をくり返してここにも一年ほど前からいるんだけど、そうしているうちに医療が進歩して手術法も確立することを期待しているの」
「今慌ててやってしまうと、モルモットにされる危険があるのよ」
それを聞いて、蓮っ葉な私といえども、世の中には見て来たものが自分とこうも違う人がいるもんだろうかと神妙に驚いた。
「私は学校の教育を受けたことがないの。ずっと家庭教師に勉強を教わって来たのよ」
「音楽は好き?私はC-C-Bの関口さんの大ファンなの」
そう言って彼女はスクラップブックを見せてくれた。
年上であるのにまるで少女のように世間擦れしていない感じに最初は多いに戸惑った私だが、次第にだんだんとその汚れない無垢な雰囲気を羨ましく思うようになっていった。
彼女は何くれと無く親切にしてくれ「あなたと年の近い人がいるから紹介するわ」と言って、別の部屋で同じく長期入院している女の人を紹介してくれた。
私より五、六歳年上のその人は、彼女のお友達だけあって、また劣らず人懐っこく温和な女性だった。
自分の病状は心臓に穴が空いていて、命には別状ないから医者は手術を勧めないが、私は思い切って手術したい。
風邪をひいたり感染症にかかったりすると健康な人よりずっと治りにくく、そうなると手術ができなくなるから、病院で安全に過ごしてタイミングを待っている、とそう話してくれた。
婚約者がいるのだと言う。
でも子供が産めるかどうか分からないから本当に結婚するほうがいいのか悩んでいるとも言っていた。
私は二人を見ていると、自分がどうして入院しているのか分からないくらい元気だった。
病院の中を全宇宙として捉えてしまい、自分ほど好運な者も居ないような気がしておかしな優越感まで芽生えて来た。
当初は検査ばかりしていた。炎症の場所を特定するためだが、どんなアプローチでもそれが分からない。
しかし痛みと熱はとっくに消え去っていた。私は早く家に帰りたくて仕方が無かった。
私と同室の人は、出会った二日目から一時帰宅した。
二週間の帰宅というので、たぶんその頃には私は退院しているはずだった。
お別れは少々名残惜しかったが、今のように携帯電話のナンバーやメールアドレスを気軽に交換する時代ではない。
お互いに連絡先などを知ることもなく、そのまま二度と会うことはなかった。
朝の回診は「白い巨塔」さながらの教授行列だった。
教授は私にあれこれ問診し、最後に「しかし元気そうですね」と困惑した表情で言い、首を傾げて部屋を出て行く。
それを身振り手振りを真似て友達に話すと、皆大笑いしていた。
私は退屈に堪え切れず、五日目くらいで退院させて欲しいと懇願した。
だが医師からは「炎症の値が少なくとも一桁になるまでは退院させることはできませんよ」と一笑に付された。
炎症値は日に日に下がってはいった。しかし痛みと高熱の原因はまだ突き止められない。
同室の女性が帰宅してしまったので、私は広い病室でたった一人だった。
日中は友達が大勢訪ねて来たり、親が見舞いに来てくれた。
食事制限も無かったので、あれこれ差し入れを買って来てもらったり、ウォークマンを持って来てだの『そよ風の贈りもの(Whitney Houston)』のCDを買って来てくれだの言いたいことを言って暢気にしていた。
当時喫煙者だった私は、医師からの一日五本という制約付きで煙草も吸っていた。
しかし、夜は寂しかった。
病室は何階か忘れたが、最上階に近くそれは見晴らしが良かった。
大きな窓から見える夜景は美しく、初めて与えられた贅沢のようでもあったが、尿を貯めおくビニールが数多くぶら下がるトイレに夜間一人で入るのは泣きそうなくらい怖かった。
隣の病室がさっきから物々しい。
トイレから出たときちらっと見えていた老婆の青白い顔。
翌朝、病室入口のネームプレートが外されていた。
そんな出来事と、入院初日の難病の子達のつぶらな眼差しが重なる。
病院の消灯時間は早い。
日中ブラブラしているので眠れるはずもなく、仕方なしにレンタルしたテレビを観たり、頼みもしないのに父が持って来た古今亭志ん生の落語のCDも、他に聞くものもないので聴くことにした。
昼間は友達や親に軽口を叩いていた。
だが私の感受性はこの三日でどこかが変化したようだった。
テレビ放送されていた映画『黄昏 On Golden Pond』でしみじみ泣き、志ん生の子別れや文七元結でさめざめと、そしてそのうち号泣していた。
人情噺とは言え、老人芸だと馬鹿にしていた落語で、まさか自分が泣くなどとはそれまで思いもしなかった。
ひとりで密室に居るのは堪らないので、薄暗い通路をウロウロしていると、心臓病の彼女がどうした訳か私を見つけて付き合ってくれた。
自販機コーナーのテーブルセットに腰掛け、電気のスイッチも点けずに彼女と他愛ない四方山ばなしをした。
彼女の目下の関心事は交際している彼のことだった。
それから、男子校の生徒たちのところで働くのは最初は嫌だったけれど、だんだん打ち解けてきたのよ、という話もしてくれた。
私たちは同級生のように真夜中まで語り合い、医師に見つかって修学旅行の生徒のように「もう寝なさい」と叱られ、くすくす笑った。
今思うと、あの二人の女性のように安らげる話し相手には、それからもう出会っていない。
しかし私は炎症の値が「9」くらいになっていよいよ退院の許可がおりると、もうすっかり病院で見て来たことなど無かったことのようにしてしまった。
病と死という、人が一生の中のどこかで必ず向き合うキーワードを神がせっかく垣間見せてくれたというのに、愚かにもその後の生き方に何一つ反映させることもなく暮らしてしまった。
人生の早いうちから長い時間難題を抱え続けて生きる人が多くいる事実を、私はなおざりにしてしまったのだ。
入院中に出逢った人たちのことは、その後も時々思い出し、時には強く思いを馳せることもあった。
彼女達がその後どうしているのだろうと考えることは、楽しくもあり言い知れぬ恐怖でもあった。
それにしても悔やまれるのは、あんなに優しくしてもらったのに、何故たった一度でもお見舞いに行かなかったのだろう、ということだ。
そんな簡単なことすらしなかった私は、それ以外に何かしたとしても、やることなすこと間違っていた気がする。
行かなくてはならない場所も、親しくするべき人も、全て過って選んだ気がしてならない。
四十を過ぎて母が癌で亡くなった。
間もなく、長く愛した猫を立て続けに二匹亡くした。
泥沼に足を取られたような悶絶の苦しみを話せる友は、そのとき私には一人も居なかった。
この孤独は、あの時もっと深く知れるはずだったことを学ばなかった罰に違いない。
矢口敦子『償い』
「性犯罪」「トラウマ」「自殺」「怨恨殺人」「精神疾患」「不倫」「不妊治療」「仕事中毒」「結婚不適合」「夫婦の傷つけ合い」「核家族」「医療過誤」「転落」「ホームレス」と社会を取り巻くいくつもの闇が複雑に交錯し、主人公日高英介の身にひたひたと迫り来る。
私たちは誰しも、まさかこの人物のような宿命が自分に降り掛かるとは思っていない。
しかし必ずどこかに起きている地球の本当の姿であることを実感していたいと思うのだ。
この物語をハッピーエンドとは呼ばないかもしれない。
だが、生かされた者が種々の元に戻せない犠牲を払いながらも「再生」のため何度でも一歩を踏み出さざるを得ない姿は、観る者に現実感のある静かな勇気を与える。
原作の著者である矢口敦子さんのプロフィールには、病気のため小学五年で通学を辞めたとしてある。
著者にはある意味少数者であり弱者であるからこそ見えていた世界観がある。
物語の結末は著者が見た真を以て語られた「生」への誠実なメッセージではないだろうか。
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